先日紹介しました半過の手掘り隧道について、机上調査で分かったことを紹介します。
調査の目的
今回調べたかったのは前回の記事の最後で書いた、「いつまでこの隧道が使われていたのか?」という点です。🤔
泉田村誌には昭和8年で廃道と書かれていたのにもかかわらず、地形図上は昭和12年でも現役の道として描かれていました。
調査資料1
最初に調査した資料は「半過、明日への道 岩鼻の黎明」です。こちらは半過自治会が発行している、国道18号バイパスの記念誌で、この中で半過の道の歴史の章があったため、手掘り隧道のことについての記載が期待できました。
結果としては、手掘り隧道のことは書かれていますが、特に目新しい情報はありませんでした。
しかし、この資料の中で、「ふるさと半過の伝承文化」という書籍の中でこの隧道について語られているということが書かれていました。
調査資料2
次に調べたのはもちろん先ほど書かれていた、「ふるさと半過の伝承文化」という書籍です。こちらも半過自治会の発行です。
こちらの資料の中で、手掘り隧道について語られている部分があり、いろいろ情報が得られました。😆
まず、一番知りたかった隧道の廃止時期について、昭和8年に開通した県道でこの隧道に代わる川沿いの道が作られたということがはっきりと書かれていました。👍
また、戦時中この隧道は軍の倉庫として使われていたということも書かれており、やはり、泉田村誌に書かれていた昭和8年で廃道になったということで間違いなさそうです。
さらに、新たな情報として坑口にあった電灯について書かれていました。💡
この電灯は当時この地域(上半過?)で唯一の電灯だったようで、夜地域の人が集まって語らう憩いの場だったというのです。
明かりを求めて隧道に集まるとか今では考えられません。
もう一点、この隧道は古い測量法で両側から掘り進められたため、合流地点でずれが生じており、現在でもそのずれを確認できると書かれていました。
古い隧道あるあるですが、特に現地ではそのような点は気づきませんでしたし、写真を見直しても特に大きくずれているような場所は見られなかったので、わずかなずれなのでしょう。
まとめ
手掘り隧道の廃止は昭和8年で間違いなさそうです。
ちなみに今回見た資料の中でも手掘り隧道は半過トンネルと書かれており、泉田村誌にあった影通トンネルという呼び方はありませんでした。